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ショック・・・
2009 / 08 / 17 ( Mon ) 01:37:24
作家の海老沢泰久氏が亡くなられたそうです。

わたし自身とても大好きな作家さんでした。
わたしはスポーツを見ることが非常に好きです。
ですが、スポーツを題材にした作品、映画や小説や漫画などを見ることはあまり好きではありません。

スポーツそのものに心底傾倒しているので(おっと微妙な表現笑)、それ以上の味付けは逆に無粋と思っているからです。
プレイ自体にドラマがあるから、わざわざフィクションにしてストーリーをつける必要を全く感じず、逆にうるさく感じてしまうのと、やはり生(まあテレビだったりラジオだったりもするのでこういうと少々違うんですけど)じゃないと、スポーツの面白さはわからないと思っているからです。

なので、非常に限られたものしか、フィクションではスポーツに触れません。
その数少ない中に海老沢さんの作品は入っていました。
この方の作品は、スポーツの表現(過度も不足もなく・・・スポーツ自体を描きすぎるとそれはそれで作品が壊れる)とそれからそれに含まれる人間ドラマのバランス、そしてなんといってもその時のスポーツ全体が孕む空気感が絶妙に作品全体にある点が特筆すべき点です。
・・・って言ってもわたしが勝手にそう思ってるだけなんですけど。
読み終わった後、なぜかそのスポーツもプレイも見たような気分になってしまう。
読後感がまさにスポーツ視聴後、みたいな。
もちろん人間ドラマの部分も本当に素晴らしかった。

中でもやっぱり『監督』だな。
この作品に出会ったのは小学生の頃。
たまたま近所の中古本屋で目に付いて手に取ったのが最初。
何度も読み返したものです。
これは西武の黄金時代を創始したともいわれる広岡監督をモデルにした作品なんですが、随所に野球哲学が盛り込まれていて、監督指南書なのではないかと思われるくらい。
わたしの野球哲学の原点は間違いなく、森元監督の本と、それからこの『監督』という作品です。
この本読んで考えが変わりましたね。
たとえば、「バントを知らないチームに勝ちはない」とか、「3割バッターといえど、10本に7本は凡打。どれだけ低くても守備に関しては10回中9回はアウトにできる。なら、守備を鍛えるほうが理にかなっている」とか。
記憶だけで書いてるので実際は多少違うと思うんですけど。

そして、この作品一度なくして再び買ったはずなんですが、最近また見当たらない。
これを機会に読み返してみたくなったので、真剣に探そうと思います。

海老沢さん、まだ59歳。
早すぎるなんてもんじゃない。
ご冥福を、お祈りします。
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skipped beat
2008 / 12 / 09 ( Tue ) 02:48:32


基本的には何物にもとらわれない自由な発想だったり、感性だったり、どこか異常なまでに「意味」づけする全体的な姿勢を、皮肉っているような人が好きなんです。
わたしが勝手に一人のアーティストをカテゴライズするというのは、大変おこがましいことではあるのですが、そういった意味で本当にこの人天才!って、桑田さんのことは思う。
特にこの曲がすばらしすぎて!

大変申し訳ない話、わたしはそこまでサザンオールスターズも桑田さん自身の歌も傾倒しているわけではないんですが、それでも圧倒的にすごいと思う。
日本の音楽シーンで、やっぱり抜群に才能がある人だっていうのは疑いないなあとも思う。

これはわたしの勝手な持論なのですが、日本と欧米の歌の考え方の違いについて。
常々思ったのが、日本は「歌詞」自体にすごく重きを置いている。それは行きすぎたら曲を差し置いてでも、歌詞の意味を、伝えたいことを重要視する場合がある。
一方海外は、歌詞というよりも、楽曲の完成度そのものに重きを置いている気がする。
それは詩だったりメロディーラインそのものだったりを、殊更強調するのではなく、演奏パフォーマンスも含め、本当に「楽曲」という形で伝えることを重視している気がする。
必ずしもそれぞれがそうというわけではなく、全体の傾向がということなんですけども。
だから日本だと歌詞カード、ブックレットって非常に重要だし、おそらくほとんどの人が、歌詞を見ながら曲を聴く。そしてそこから何かを汲み取ろうとして、そこから何かを感じようとする。
聞き流すことが難しいとも言えるかもしれない。ある意味で左脳で聞く曲とも言えるかもしれない。
だから、日本の場合は、聞く側も歌手に求めているものが、欧米とは違うんだろうなという気もする。
一部で言われる、日本の演奏レベルの低さだったり、ライブのパフォーマンスの拙さとかはそこに起因するんじゃないかな。

桑田さんにおいては、なんというか、一言で表すなら実に軽やか。軽やかとしか言い表しようがないくらい、楽曲も詩もパフォーマンスも姿勢も軽やか。
そして、詩を大事にしている部分ももちろんあるんだけど、それ以上にやっぱり「楽曲」という形をうまく表す才能がある。西洋の場合は「詩」の意味よりも、語感のいい、聞こえのいい歌詞というほうが多い気がするんですよね。もちろん日本でもあるとは思うんですが。
桑田さんがこれまたその部分がとてもうまい。
だから聞いていてとても気持ちがいい。聞き流すことができる。
「愛の言霊」を聞いた時に特に強く感じた。あれは、実際サザンの中でもいろいろ遊びが詰まった曲らしいんですが、わたしはあの曲どっかで「フランスの曲のマネだ」って言う意見を読んだことがあるんですよ。それ読んだとき、ああだからあの曲はフランス語っぽい響きが多用されてるんだ!って思ったんですよね。日本語と英語の歌詞なのに。でもだから余計にすごいと思った。
実際は、フランスではなかったらしいんですけど。わたしの耳、あてにならない!笑

で、ここからまたありもしない話につなげるんですけど、この日本と欧米の違いは、そのまま近代的自我の違いに当てはまるんじゃないか、とも思うんだけど笑。
あれ、また飛びすぎたかな笑。
意外に当てはまってるんじゃないかと個人的には思うんですが。
つまりは、自然主義文学の日本と欧米の違いにそのままあてはまる、と。
わたしはそれほど洋楽に詳しくはないんですが、たとえばパンクとかロックとかメタルが成立した背景を考えると、必ずどこかに社会が関係してくるでしょう。
簡単にいえば、西洋の自然主義文学というものは、イコール資本主義社会と個の対立ということができるわけですが、日本の場合は形式のみを輸入して、実際は社会との対立として自然主義文学が成立しなかった。
三島なんかはそれを「転向」によって自我を守った、と言っている。つまりは、西洋の場合は、戦うべき社会が崩れたとき、それに相対していた「個」つまりは「自我」も崩壊する。
これが近代的自我の崩壊であるわけですが、日本の場合は、「社会対個」として成立していないから、社会が崩壊しても「自我」は崩壊することなく、対立する相手を変えることで「自我」を守った、ということ。これがつまり「転向」という意味合いなんですが。
というか三島は日本においては「近代的自我」そのものが成立しなかったとさえ言っている。
でも、これわたしもちょっと賛成。
それと同時に(ちょっと矛盾しているようなんですが)日本ではいまだに「我思うゆえに、我あり」というデカルトの近代的自我をなんだかんだ言いつつ、前提にしている気がする。

ここからは大分昔に書いた三島の論文から引っ張ってきますけども、

おそらく日本における自然主義文学はデカルトの「近代的自我」、つまり「我思う故に我あり」の考えを根幹部分に絶対的前提としておいているように考えられる。
だからこそ、「私」にこだわり、そして「私」がこの世の誰よりも偉い、と言う思潮が見え隠れする結果となるのである。これは同じ対談内にて中村光夫が西洋と東洋の「近代的自我」を比較して、(ドストエフスキーを比較に出している)西洋においては「フィクションとして自分の自我を書いている」とし、そこには自我に対する後ろめたさがあるとしている。
一方、日本の文学者は逆に「自我を主張することで文明の代表者」然としていると批判する 。つまり、ヨーロッパの小説家は「相対的すなわち社会的実在としてのエゴ」であり、自己保全のために「虚構の中に自己を隠し」た。
一方日本の「私小説」は「外に目を閉じるエゴ」であり、「その生き方と弁護」を行った (これの引用及び参考は、三島由紀夫著、『三島由紀夫全集40』、「対談人間と文学」、林進著、『三島由紀夫とトーマス・マン』あたりから)

日本における小説だとか歌詞だとかは、この部分をいまだに引きずっているんではないかなってわたし個人的には考えてるわけです。
日本の私小説というのは、「私」個人に収束しうるものが非常に多い。
それが良い、悪いっていうのではないんだけど、文化の違いなだけで、日本の音楽と、西洋の音楽の違いっていうものが、どうしてもこの自然主義文学の違いにも通じる気がするんだよな。
西洋においては崩壊しているのでまた違ってくると思うんですが、日本の歌詞に重きを置くっていう文化については、この自然主義文学の輸入辺りからずっと続いているものの表象なんじゃないかなって思うんです。まったくもってわたし個人の意見なんですが。

ああ、なんかこういうわけのわからない屁理屈だったり、こじつけを考えるのがすっごく楽しい!
実際はどうだかわからないんですけど、どっかにこういう部分が本当にあったりしないだろうか。
基本的に自分が思ったことを適当に書いてるので、全部話し半分でお願いします笑。

ついでに言うと、桑田さんのいやらしくも生々しくも下品でもなく、重くもないエロさ。これもまた極上だぜ!笑
しかし、この曲間奏の「Woman, say!」で観客が「year!」って言う掛け合いはすごいよなあ。
西洋のマニエリスム時代の遊びの精神とかも大好きなんですけど、桑田さんの持つ遊びの精神もまた尊敬すべき部分だなあと思います。

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海外
2008 / 11 / 04 ( Tue ) 01:28:19
海外旅行に行きたいね、っていう話を同期としました。
わたしの同期はおもしろいほど、みんな別々の人生を歩んできた人たちばかりで、向いている方向も見事にバラバラ。
やっぱり大学は、わたしが行きたいとこに行けず、勉強したかったことができずに、微妙に興味の対象が違う人たちと4年間過ごしたのであっても、カテゴライズするならある種、同じところに立っている人たちだったんだな、っていうのも実感しました。
それを前提とした細部での立ち位置の違いというか、結局は同じ方向に向いて生きてきたから、ある程度の理解はできるし、盛り上がるところも同じなんですよね。
今周りにいる人間は本当にまったくそういう感じではなく、一つとして共通性がない、というくらいに、わたしが今まで生きてきた世界にいなかった人たちです。
だから、面白い。だからまた違う世界が見られて、それはそれでたのしいのですが、それでもそこがストレスにつながる部分も、コンプレックスにつながる部分も、逆に優越感につながる部分も出てくる。
ま、わたしはありがたいことに、親の教育のせいか学歴という部分にはまったく縛られないので(人間として尊敬できる部分があればそれだけでいい)、そのあたりは全然大丈夫なんですが。

そんなわけで、そういった同期と海外に行ったらいったいどんな楽しみ方になるのか、そういった部分も興味深い。
その女の子は、非常に行動派で初めての海外なのに、ひとりで行った、とのこと。しかも、南米。
すごくね?
わたしには絶対無理だよ。わたしも初めての海外で、ツアーじゃなくて行ったけども、ひとりでパリの街をさまよっていたけども。それとはレベルが違いすぎるだろ笑。
こういう理論よりも行動派という人にもあまり出会ったことがないから、すごく尊敬するし、うらやましくなる。

ところで今日は(もう昨日)文化の日でした。文化の日なので、TBSの方で「フェルメールの暗号」という番組をやっていました。
こういう番組はどうしても、それほどすごくない事実に対しても無駄にドラマチックに仕上げるので、あまり好きではありませんが、やはり画家の人生であったり、その周りにいた人々であったり、そういったものが一本にまとまってるものを見るという機会は少ないので(専門書を読むというのも難しいですし)、そういった点では非常に興味深く見ました。
フェルメールの暗号いう点では、そんな目新しいものはなかったですが(あれを暗号といったら殆どすべての絵画が暗号になってしまうし。てか絵画ってそういうものじゃないか?)、フェルメールの贋作家の話が面白かったですね。フェルメールの贋作家メーヘレンの話っていうのは有名な話なんですが、わたしはそこまでフェルメールに詳しい訳ではないので、ちゃんと知らなかったので、非常に面白かったです。しかも、そこまでフェルメールっぽくないっていうね。そこが逆に落とし穴なのかな。
またこれ、無意識の話にいきますけど、19世紀の無意識の発見が大きくかかわる。
同じ時期にモレッリによる絵画鑑定法が提唱される。これは絵画の真贋を判定する際に用いられたものである。モレッリはこれまでの鑑定法の中心であった、画家の特徴(レオナルドの微笑み等)について、「最も模倣しやすい特徴に注目することは必要ない 」と書いている。「むしろ画家が属していた流派の特徴に最も影響を受けていない、最も見過ごしやすい細部を検討する必要がある 」としている。これは画家の特徴は皆当然意識して描くが、耳たぶや足の先等々の細かいところまでは意識して描かない。つまり、無意識的に描かれたところにこそ、その人の特徴が出る、という説である。
それによる鑑定で、メーヘレンの絵画はおそらくフェルメールのものであると鑑定されたのではないだろうか。ただ、それはやはり科学的ではない。
けれど、わたしはそこに重点を置きたいわけでもない。モレッリの鑑定法、これは本当に心理であり、理屈にもかなっていると思う。ただし、その無意識を人間は本当に絵画から汲み取り、比較することが可能なのか、という点だ。
だからと言って、今のように科学的にすべてを鑑定して、エックス線で映し出して、科学的根拠に基づかなくてはならないとも言いたくない。

スタジオでも、みなさんが言ってましたが、「ぱっとみて印象が違う。同じ画家とは思えない」ということ。
わたしは、ちょっと齧ったくらいで専門的なことは何一つわかりません。だから何も偉そうなことは言えないんですけど。
わたしが絵を見る上でも、映画を見る上でも、何をする上でも、これを大事にしたいというものがあります。
それが「ぱっとみて印象が違う」。これに集約される。基本的なことを知っていることはもちろん前提。専門的にもしっかりすべてを検証したということも当然。
それらをすべて踏まえた上で、最初の印象もやはり重きを置きたい。
一番初めに感じた「それ」は、やっぱり何かを感じ取っているから、わたしの中の何に反応しているかっていうのを一番表していると思うんですよね。
そんな個人的な意見で、しかも個人的な楽しみ方の話をつなげるのは忍びないんですけど、やはり「ぱっとみて印象が違う絵」というのは、その人の絵画ではないんだろうなと思うんです。
それじゃモレッリの絵画鑑定法とか反対なのかって感じなんですけど、その逆。
わたし無意識大好物です(食べ物みたいに言うな)。
ただ、わたしがこっそり思っているのがそのぱっとみた印象にこそ(ここまでいったら言い過ぎなんですけど)、無意識も含まれる、と思うんです。
パッと見た印象で、絵のすべてを意識的に見ることは難しい。それ以上に細部を見ることすらできないでしょう。だからこそはいりこんでくる無意識の隙間。
感覚を意識的に考えることが難しいからこそ、無意識を感覚的に認識することが難しいからこそ、このパッと見た印象が生きる気がする。
もちろん先にも述べましたが、それを裏付けるのにさまざまな理論は必要でしょう。

ああ、でもこれ結局19世紀以前と同じなんだろうな。
その感覚をどうするかって散々検証した結果がこの無意識であったりするんだからな。
うん、結局わたし個人の楽しみ方ってことで結論だ笑。

それと同時に、キリスト教を知らないと本当にヨーロッパ文化を勉強する意味がないということをさらに痛感。
わたしがヨーロッパ文化に興味を覚えるのはまったく自分が受け入れられないものであり、自分がまったく知りようがないことだからです。
絶望させられたい、というといろんな人から眉をひそめられるんですが笑、絶望したいんです。
少し、理解できたような気がして喜んで、最終的には完璧に拒絶される、その繰り返し。
だから面白い。

ああ、しかし、海外に行って痛感したけど、わたしはキリスト教徒として、芸術に触れることができないということ。だから結局表面的なことを舐めるだけになってしまう。
それが悔しかったな。
だからと言って、わたしがキリスト教徒になったとしてもそれはまた完璧に違うんだろう。
その世界に生まれおちている。環境が絶対的に強い。それが文化だ。
素養が違う、だけではすまされない違いがある。それを痛烈に感じてやっぱり絶望したもんだな笑。

ところで、たまに「海外ってどんな感じ?」と聞かれることがある。
わたしもそんな海外に行ってないので、答えに窮するとこなんですけど。
自分で実感したのが、初めての海外がフランスというかパリなんですけど、帰ってきたらロートレックが好きになっていました。
ロートレックはわたしはそれほど好きではなかったんです、渡航前。
実際フランス行って、美術館でロートレックを見てすごく感動したってわけじゃないんです。
なんだけど、なぜか帰ってきたらすごく好きになっていました。
また寒いことを言ってしまえば、パリという実際の空気に触れたら、それがロートレックの雰囲気だったんですよね。
ムーランルージュだとか、けばけばしさだとか、パリのもつ独特な妖艶な空気だとか、汚さだとか、裏も表もいろいろあるんだけど、その空気がロートレックだったんです。ほんと。
あくまでわたしが感じたものが、なんですけど。
今でもロートレックみるとパリを思い出します。街の雰囲気。
わたしの中では、海外に行くってどういうことかっていったら、こういうことなんだと思います。


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