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生まれ落ちるということ。
2008 / 09 / 20 ( Sat ) 00:35:15

例えばソシュールなんかの概念を勉強するとそんなのだれでも思いつくよなー当たり前のことだもんって思ってしまったりするのだけれど、当たり前に行き着くような所に答えがあるこの世界を作り出したのがその人物であるって事を忘れるという今の時代に生まれ落ちているが故の傲慢さがそこには存在している。
無意識しかりゼロしかり兎角最初に何かを発見する人は、ある意味で人間(であるが故の可能性)を超えかけているのであるのだがしかし

「プラネタリウムなんだ世界は
 僕らは映写機
 知ってる星しか映し出せない」
というセリフが言い当てている 


言いたいことはわかるけど、何ていうか一文が長い。
これはあれかな、昔はまっていたイタリア文学の影響か笑。
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アンディ・ウォーホル『マリリン・モンロー』
2008 / 08 / 31 ( Sun ) 20:54:37
パソコンあたらしくなったので、打つのに慣れるためにまたしても昔の文章を引っ張り出してみます。

論文ではなく、感想です。


「アンディ・ウォーホル『マリリン・モンロー』」

 ポップ・アート、大衆文化とはいったい何か。その問いは何よりももう一度「芸術とは何か」という問いにまでさかのぼらせる。そしてその疑問は最終的には「人間とは何か」という強烈な問いに立ち返らせるのではないかと思っている。
殊にアンディ・ウォーホルの作品は強烈である。そこに描かれた図像は確かに珍しいものではなく、当時の人々にとっては慣れ親しんだものばかりであり、解り易くまさに大衆的な文化であるといえるだろう。そのようなウォーホルの手法は複製時代のまさに中心部を貫いている。
シルクスクリーンに描き出された人物は、譬え誰もがしっている「マリリン・モンロー」でさえ、知っているようで知らないものに見えてくる。
元の写真から色数や階調を落とされ、一目見た印象はとてもポップでおしゃれにさえ見えるかもしれない。誰もがこの作品を見た瞬間に「マリリン・モンロー」だと理解することも可能である。
しかし、更によく眺めた時に、絶大な人気を誇ったシンボル「マリリン・モンロー」はただ消費される公的な記号でしかなかったことに気付かされるのである。

 ポップ・アートは非常に明るく開放的だと言える。同じポップアートであるモンドリアンの≪ブロードウェイ・ブギウギ≫も非常にポップ的である。けれど、それは路線図に、地図に、都市に似ている。
そこにはどうしても無機質な何かを感じざるを得ない。大量生産・消費時代が味気ない時代だとも、大都市も冷たいとは思わないが、それでもポップ・アートには常に空虚感が漂っているように感じられる。
 
 例えば、不意に漢字が読めなくなることがないだろうか。ここに「古い」という漢字があったとする。普段はこの漢字のもつ意味を伴った形で理解するだろう。しかしその意味内容を伴った文字としての「古」ではなく、「古」という計上でしか認識できなくなるのである。
彼の≪マリリン・モンロー≫という作品を初めて見たときに、同じ感覚を味わったのである。「ポップ・アート」の姿勢に照らし合わせるなら、「マリリン・モンロー」も「オブジェ」でしかなかったということである。

 意味あるものも大量にコピーしてしまえば無意味になる。「意味あるものがおぞましい。無意味なものほど格好いい」と言ったウォーホルに相応しい芸術、それがコピーという「生産」だったのである。
誰もが手に出来ること、それを平等といえば聞こえが良い。けれど、それは誰もが同じこと(非個人と化していること)をも指し示す、いわば「コピー」と類似した意味にもなるということを、ウォーホルは≪マリリン・モンロー≫という作品を通して語りかけてくるようである。
 だがウォーホルがこの大量生産大量消費、イメージ氾濫の時代を憂いていたという結論に導くのは少し急ぎすぎだろう。彼はその時代を過小評価も過大評価もすることなく、まさに「オブジェ」として見ていたといえるのではないだろうか。

 最後にこのようにウォーホルが抽出したものは「公的」なものである、としたが、日高優はそれについて面白い指摘をしている。あくまでウォーホルが表現したのは公的なものであるが、受容する観客側に実際はすべてが委ねられる、というのである。
 つまり、ウォーホルの作品はそれまでの観客の「マリリン」とのコミュニケーションを否定するものではなく、記号化された「マリリン」が公的であれ、私的であれ、観客側が私的な空間で「マリリン」を消費するとき、憧れた「マリリン・モンロー」とコミュニケーションが成立するというのだ(参照:日高優、「カムフラージュの技法」『美術史の七つの顔』、未来社、2005)。
 ウォーホルの手法は「オリジナル」と「コピー(複製)」との差をなくしてしまう。故に、芸術界では絶対であった「作者」という主体(それはオリジナルだけが持ちうる「アウラ」にも繋がる)を消し去ることを可能にしている。
ウォーホルの作品はウォーホルの知らないところで消費され、ウォーホルという主体を完全に切り離す。
主体が存在しないことは、言い換えれば誰しもがその作品の主体になれることを表しているともいえるかもしれない。

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衝撃的ニュース
2006 / 01 / 23 ( Mon ) 22:15:50
つい先程、衝撃のニュースが飛び込んできました
「堀江貴文社長、緊急逮捕」されたそうです…
とても残念なことだなあ、と思います

わたしはそれほど、ライブドア派でもないし、応援していたわけでもありません
かといって逆に非難していたわけではありません
彼のやり方全部には賛成できないし、中にはそれはちょっとマナー違反かなあ?なんて何も判らないながらも、思っていたりもしていたのですが、こういう人がいてもいい、とは思っていたのです
確かに彼は時代の寵児、新しい時代、ネットメディアの可能性を印象づけるには充分の存在で、またそれを感じさせる人物だったことは確かです

今回の逮捕に繋がった行為については、仕方がないでしょう
悪いことをしたら逮捕されることは当然だし、それは確かに上記のことと照らし合わせれば、非常にショックなのですが、この事実は、ただ「若い起業家の逮捕」という事実だけです
こういうただひとりでの起業は時に無理な対応を迫られ、そしてもしかしたら逮捕、なんていう危ない端まで渡らなければならない、というのは仕方のないことだろう、と思います
その結果逮捕に繋がる、別にたいした大事件ではない、とそう認識したい
つまり今回の一連の問題が日本にとって象徴的にならないで欲しいなあ、ということ
まあ無理なんですけれど ここまでの人で、ここまでの話だと
せっかくアメリカのような経済体制になるか、と思ったのですが、そういったことで非常に残念
おそらく日本の旧体制だと、駆逐する方に動くだろうから
大御所たちが「ほれみろ」みたいなことになることが一番恐く、世間の反応も「やはりこういう新しい手法では…」みたいな、出てきづらくなる状況になることが一番恐ろしいですね
新しい風が必要、だと誰もが思っていたときの「ライブドア」「楽天」の登場
新しい時代の幕開け、かと、そういった意味では彼らの登場は実に嬉しいものでしたが


「若い起業家がたくさん出てくるかと思っていたので、ショックですね」
街頭インタビューのこの言葉、これがおそらく日本の体勢、そして日本にとってのこういった可能性がとりあえずしばらくの間はなくなった、ということが凝縮されたものだろう

やはりとても残念です
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