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『野性の夜に』(1992/仏/ドラマ)
2006 / 10 / 01 ( Sun ) 12:13:11
生きている、という実感


ネタばれ



死と同じように生きることも避けられない、と言ったのはチャップリンでしたっけ。
確かに私は明日死ぬ命かもしれない。でも、その前に確かに生きているのだ。心臓は動き、呼吸をし、食事をし、映画を見て。ただ、安穏と生きているこの日々にそう気付くことは余りない。
余りに当たり前のことを当たり前として生きているから。
生は死を孕み、死は生を孕む。頭では判っているつもりでも、実際それがどういうことなのか、判っていない場合が多い。
そういった意味では、この映画の主人公のように不治の病を宣告された人々は非常に曖昧な存在だ。生きているのに、死んでいる気がする。まだ見ぬ死という存在が目の前に立ちふさがる。
だから主人公はこの映画の中で、荒れる。それは死の恐怖。自分だけ病気に掛かったという理不尽さ。一見非常に自分勝手に見える(いや、実際自分勝手に振る舞うのだが)。それはどこかしら感じる憤り。
それまでは気にしていなかった普通に生きる人々への嫉妬心が生まれる。「お前に何が判る」状況ですよね。

それに関しては私には何も言える権利がないので、何も言いませんが、ただ人間の生死に関する話になると、必ず出てくるのが「愛」の存在。愛は不思議なもので、これ自体が生と死を孕んでいます。愛は人間に「生」と「死」を身近に引き寄せる。それは恋愛だけではありません。愛という感情そのもの。何故死ぬのが怖いのか。何故まだ生きていたいのか。それは(私にとって、だけかもしれませんが)愛だと思うのです。生へ引き留める物。それは友人への愛。家族への愛。恋人への愛。ペットへの愛。ぬいぐるみへの愛。絵本への愛。執着、と言い換えてもいいかもしれません。生への執着は、愛が根幹にあると思うからです。それと同時に死をも引き寄せます。それは祖国への愛。恋人への愛。家族への愛。それは自らを犠牲にしてしまうもの。

この映画ではジャンは主に前者を、ローラは主に後者を強く持ちます。特にローラは苦しみをも分かち合おうとして、壊れていきます。
本当は誰でも死に対する立場は変わらないのかもしれません。
エイズにかかった人達がいます。ガンに、白血病に苦しんでいる人達がいます。
でも、今健康と思っている他の人達が次の日に、事故でその人達よりも先に死んでしまうことは十分にあり得ます。
前者と後者の違いは、自覚だと思うのです。
判らない、ということは非常に便利です。私たちはそこここに転がっている死の陰を全く無視して生きることが出来るからです。判らないものを怯えても仕方がない、という論理です。後者は常に死の陰に悩まされます。期間が限定されるからです。一ヶ月後は生きているかもしれない。でも3年後には確実に死んでいる、といった風に。その死の恐怖はいかほどの物だろう。けれど、その死の恐怖をちょっと遠くから見てみたとき、死というものを考えてみたときに、ラストのジャンのように、まさに今、生きている自分に気付くのです。それは死と同様、ぼんやりしていた生というものがわき上がってくる瞬間です。
ラストのジャンの非常に優しい表情。生きているという実感。本当にそれは夕焼けの空を沈もうとしている太陽のようなもの。私も明日死ぬかもしれない。でも、確かに今生きている。明日のことを考えながら、映画を見ながら、心臓は動き、息をしている。
生きる、ということは避けられない。私は今、生きている。生きている。


★★★☆☆(2004.5.13/ビデオ)

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