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skipped beat
2008 / 12 / 09 ( Tue ) 02:48:32


基本的には何物にもとらわれない自由な発想だったり、感性だったり、どこか異常なまでに「意味」づけする全体的な姿勢を、皮肉っているような人が好きなんです。
わたしが勝手に一人のアーティストをカテゴライズするというのは、大変おこがましいことではあるのですが、そういった意味で本当にこの人天才!って、桑田さんのことは思う。
特にこの曲がすばらしすぎて!

大変申し訳ない話、わたしはそこまでサザンオールスターズも桑田さん自身の歌も傾倒しているわけではないんですが、それでも圧倒的にすごいと思う。
日本の音楽シーンで、やっぱり抜群に才能がある人だっていうのは疑いないなあとも思う。

これはわたしの勝手な持論なのですが、日本と欧米の歌の考え方の違いについて。
常々思ったのが、日本は「歌詞」自体にすごく重きを置いている。それは行きすぎたら曲を差し置いてでも、歌詞の意味を、伝えたいことを重要視する場合がある。
一方海外は、歌詞というよりも、楽曲の完成度そのものに重きを置いている気がする。
それは詩だったりメロディーラインそのものだったりを、殊更強調するのではなく、演奏パフォーマンスも含め、本当に「楽曲」という形で伝えることを重視している気がする。
必ずしもそれぞれがそうというわけではなく、全体の傾向がということなんですけども。
だから日本だと歌詞カード、ブックレットって非常に重要だし、おそらくほとんどの人が、歌詞を見ながら曲を聴く。そしてそこから何かを汲み取ろうとして、そこから何かを感じようとする。
聞き流すことが難しいとも言えるかもしれない。ある意味で左脳で聞く曲とも言えるかもしれない。
だから、日本の場合は、聞く側も歌手に求めているものが、欧米とは違うんだろうなという気もする。
一部で言われる、日本の演奏レベルの低さだったり、ライブのパフォーマンスの拙さとかはそこに起因するんじゃないかな。

桑田さんにおいては、なんというか、一言で表すなら実に軽やか。軽やかとしか言い表しようがないくらい、楽曲も詩もパフォーマンスも姿勢も軽やか。
そして、詩を大事にしている部分ももちろんあるんだけど、それ以上にやっぱり「楽曲」という形をうまく表す才能がある。西洋の場合は「詩」の意味よりも、語感のいい、聞こえのいい歌詞というほうが多い気がするんですよね。もちろん日本でもあるとは思うんですが。
桑田さんがこれまたその部分がとてもうまい。
だから聞いていてとても気持ちがいい。聞き流すことができる。
「愛の言霊」を聞いた時に特に強く感じた。あれは、実際サザンの中でもいろいろ遊びが詰まった曲らしいんですが、わたしはあの曲どっかで「フランスの曲のマネだ」って言う意見を読んだことがあるんですよ。それ読んだとき、ああだからあの曲はフランス語っぽい響きが多用されてるんだ!って思ったんですよね。日本語と英語の歌詞なのに。でもだから余計にすごいと思った。
実際は、フランスではなかったらしいんですけど。わたしの耳、あてにならない!笑

で、ここからまたありもしない話につなげるんですけど、この日本と欧米の違いは、そのまま近代的自我の違いに当てはまるんじゃないか、とも思うんだけど笑。
あれ、また飛びすぎたかな笑。
意外に当てはまってるんじゃないかと個人的には思うんですが。
つまりは、自然主義文学の日本と欧米の違いにそのままあてはまる、と。
わたしはそれほど洋楽に詳しくはないんですが、たとえばパンクとかロックとかメタルが成立した背景を考えると、必ずどこかに社会が関係してくるでしょう。
簡単にいえば、西洋の自然主義文学というものは、イコール資本主義社会と個の対立ということができるわけですが、日本の場合は形式のみを輸入して、実際は社会との対立として自然主義文学が成立しなかった。
三島なんかはそれを「転向」によって自我を守った、と言っている。つまりは、西洋の場合は、戦うべき社会が崩れたとき、それに相対していた「個」つまりは「自我」も崩壊する。
これが近代的自我の崩壊であるわけですが、日本の場合は、「社会対個」として成立していないから、社会が崩壊しても「自我」は崩壊することなく、対立する相手を変えることで「自我」を守った、ということ。これがつまり「転向」という意味合いなんですが。
というか三島は日本においては「近代的自我」そのものが成立しなかったとさえ言っている。
でも、これわたしもちょっと賛成。
それと同時に(ちょっと矛盾しているようなんですが)日本ではいまだに「我思うゆえに、我あり」というデカルトの近代的自我をなんだかんだ言いつつ、前提にしている気がする。

ここからは大分昔に書いた三島の論文から引っ張ってきますけども、

おそらく日本における自然主義文学はデカルトの「近代的自我」、つまり「我思う故に我あり」の考えを根幹部分に絶対的前提としておいているように考えられる。
だからこそ、「私」にこだわり、そして「私」がこの世の誰よりも偉い、と言う思潮が見え隠れする結果となるのである。これは同じ対談内にて中村光夫が西洋と東洋の「近代的自我」を比較して、(ドストエフスキーを比較に出している)西洋においては「フィクションとして自分の自我を書いている」とし、そこには自我に対する後ろめたさがあるとしている。
一方、日本の文学者は逆に「自我を主張することで文明の代表者」然としていると批判する 。つまり、ヨーロッパの小説家は「相対的すなわち社会的実在としてのエゴ」であり、自己保全のために「虚構の中に自己を隠し」た。
一方日本の「私小説」は「外に目を閉じるエゴ」であり、「その生き方と弁護」を行った (これの引用及び参考は、三島由紀夫著、『三島由紀夫全集40』、「対談人間と文学」、林進著、『三島由紀夫とトーマス・マン』あたりから)

日本における小説だとか歌詞だとかは、この部分をいまだに引きずっているんではないかなってわたし個人的には考えてるわけです。
日本の私小説というのは、「私」個人に収束しうるものが非常に多い。
それが良い、悪いっていうのではないんだけど、文化の違いなだけで、日本の音楽と、西洋の音楽の違いっていうものが、どうしてもこの自然主義文学の違いにも通じる気がするんだよな。
西洋においては崩壊しているのでまた違ってくると思うんですが、日本の歌詞に重きを置くっていう文化については、この自然主義文学の輸入辺りからずっと続いているものの表象なんじゃないかなって思うんです。まったくもってわたし個人の意見なんですが。

ああ、なんかこういうわけのわからない屁理屈だったり、こじつけを考えるのがすっごく楽しい!
実際はどうだかわからないんですけど、どっかにこういう部分が本当にあったりしないだろうか。
基本的に自分が思ったことを適当に書いてるので、全部話し半分でお願いします笑。

ついでに言うと、桑田さんのいやらしくも生々しくも下品でもなく、重くもないエロさ。これもまた極上だぜ!笑
しかし、この曲間奏の「Woman, say!」で観客が「year!」って言う掛け合いはすごいよなあ。
西洋のマニエリスム時代の遊びの精神とかも大好きなんですけど、桑田さんの持つ遊びの精神もまた尊敬すべき部分だなあと思います。

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