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スーザン・ソンタグによる「メイプルソープ論」にたいする論評
2005 / 12 / 24 ( Sat ) 17:02:24
わたしの好きな写真家メイプルソープについて、評したスーザンソンタグ氏の論を読んでの、それに対する更なる論評

デカルトによる「近代的自我」の崩壊を受けての論評


カメラで写真を取られることはソンタグが感じたように、居心地のわるいものである。
それは相手が人間、つまり「私以外の他者」のまなざしであれば感じるはずのない戸惑いである。

メイプルソープがカメラを使い、表現しようとしたことは彼の初期の作品に見られるような“私対あなた”という二人称の関係から切っても切り離せない部分ではなく、“存在そのもの”、つまり三人称的な顔の部分である。彼の写真は第三者(鑑賞者)に対する拒絶が見られる。
それは「私」との関係を徹底的に剥いだ「一個体」としての彼、彼女、つまり「私(鑑賞者も含む)」は客観的な「彼」としてしか彼を見ることは出来ない。
「彼」が「あなた」になることはない。
おそらく、メイプルソープが取った写真は私(鑑賞者)の知っている人でさえ私の知らない“もの”になるだろう。


彼は、いかなるまなざしであっても決して変わることのない「その人の顔(存在)」を模索し続けた。
20世紀初頭に登場した「間主観的」な顔、関係性の中にのみ「個人」が生まれるという命題から考えると、それは不可能に思える。

しかし、リサ・ライオンの肖像写真を見てみるとその人の「顔」には固執しない彼の立ち位置が見える。
素顔がその人の「顔」であるという前提が彼の写真にはない。
リサ・ライオンにとって彼女の存在を一番に語るのは、顔ではなくその肉体であった。
肉体こそが彼女の表情を雄弁に物語る。
つまり肉体が彼女の素顔なのである。

メイプルソープは人間を純粋に「もの」として扱うことによって、つまり「人間」という枠組みをはずすことによって、確固たる「個人」を探し求め、そして唯一絶対の「個人の顔」の体現を可能にした。
そしてそれは写真というメディアの“人間のまなざし”以外の視点の登場がなければ為し得なかったことでもある。
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