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『指輪物語』 何故ホビットなのか
2005 / 12 / 27 ( Tue ) 01:49:31
私はこの「指輪物語」は世代交代の話でもあると思っています。 
それは勿論各種族の若者への世代交代、そして何と言っても支配するもの、されるもの、中つ国の中心となる種族の交代です。 
言ってみれば、それまでこの世界の中心だったエルフでは、おそらく今現在の世界の根底(指輪の支配)を崩す戦いはおそらく勝てないのだと思います。 良くも悪くもエルフは指輪に支配されている。
彼らが指輪のある世界に生まれ落ちているという事実、根本的な部分ですでにエルフ、それは先の戦いの英雄であるグロールフィンデルでさえ指輪には抗えないのだと思うのです。

そう考えるとこの戦いでサウロンに対抗しうる種族は、指輪を持たないホビット、そして人間しかいないのだと思います。
人間に限っては指輪に支配されているとも言えますが、エルフとの違いは、結局はどれだけ種族として若いのかという点だと思います。
エルフは実は格式張っていて、保守的だという風にも考えられる。
エルフは中つ国に初めて生まれただけあって、すでに種族として完成を見ています。
非の打ち所のない、という事は裏を返せばそれ以上の発展も望めないと言うことです。
おそらくガンダルフらはこのことを判っていたのでしょう。

逆に人間は最も遅く生を受けた種族であり、まだまだ発展途上の種族でもある。まだどれだけ種族として成熟していくのかが判らないため、指輪に打ち勝つ可能性があるのだと思います。

そして、ホビットにおいては、矢張り中つ国という世界では隠れた存在であったという事実があり、それはおそらくサウロンも、エルフもドワーフも人間も、彼らの事をよく知らなかったのではないのでしょうか。
また表舞台に出てこないと言うことで、ホビット自身でさえ自分たちの力を計り知れなかったのではないかと思います。
ホビットはおそらく読者の投影でもあります。この本のテーマが成長ではなく自覚であるなら(それは自己認識とも言えるかもしれませんが)ホビット達がこの任務を引っ張る役割を果たしたのも理解できる気がします。

思考 TB:1 admin page top↑
スーザン・ソンタグによる「メイプルソープ論」にたいする論評
2005 / 12 / 24 ( Sat ) 17:02:24
わたしの好きな写真家メイプルソープについて、評したスーザンソンタグ氏の論を読んでの、それに対する更なる論評

デカルトによる「近代的自我」の崩壊を受けての論評


カメラで写真を取られることはソンタグが感じたように、居心地のわるいものである。
それは相手が人間、つまり「私以外の他者」のまなざしであれば感じるはずのない戸惑いである。

メイプルソープがカメラを使い、表現しようとしたことは彼の初期の作品に見られるような“私対あなた”という二人称の関係から切っても切り離せない部分ではなく、“存在そのもの”、つまり三人称的な顔の部分である。彼の写真は第三者(鑑賞者)に対する拒絶が見られる。
それは「私」との関係を徹底的に剥いだ「一個体」としての彼、彼女、つまり「私(鑑賞者も含む)」は客観的な「彼」としてしか彼を見ることは出来ない。
「彼」が「あなた」になることはない。
おそらく、メイプルソープが取った写真は私(鑑賞者)の知っている人でさえ私の知らない“もの”になるだろう。


彼は、いかなるまなざしであっても決して変わることのない「その人の顔(存在)」を模索し続けた。
20世紀初頭に登場した「間主観的」な顔、関係性の中にのみ「個人」が生まれるという命題から考えると、それは不可能に思える。

しかし、リサ・ライオンの肖像写真を見てみるとその人の「顔」には固執しない彼の立ち位置が見える。
素顔がその人の「顔」であるという前提が彼の写真にはない。
リサ・ライオンにとって彼女の存在を一番に語るのは、顔ではなくその肉体であった。
肉体こそが彼女の表情を雄弁に物語る。
つまり肉体が彼女の素顔なのである。

メイプルソープは人間を純粋に「もの」として扱うことによって、つまり「人間」という枠組みをはずすことによって、確固たる「個人」を探し求め、そして唯一絶対の「個人の顔」の体現を可能にした。
そしてそれは写真というメディアの“人間のまなざし”以外の視点の登場がなければ為し得なかったことでもある。
思考 TB:0 admin page top↑
さて殺人への共感とは
2005 / 12 / 12 ( Mon ) 00:30:54
殺人者への共感を呼び起こそうとする、世間の試みがある
共感、というと語弊があるかもしれない
では、理解、や納得といったらどうか?
世間兎角マスコミにおいては、殺人事件の理由探しに躍起になる
それは何故か?
上記の通り、納得したいのである
何故、彼は彼女はそのような事態に陥ったのか
何故このような陰惨極まりない事件を引き起こしたのか
そういった答えを血眼になって探す
そして何でも、例えそれがこじつけであっても自分たちが納得できる理由が見つかると安心するのだ
この心理とは一体なんなのだろうか?
殺人者の心理を理解することで一体どのような安心を得られるというのだろうか

それは殺人という得体の知れない(まず死の世界が得たいがしれないためでもある)事件を何とか自分の範疇内に(つまりそれは得体の知れるものになる)収めようとする
だがその時の心理ほど怖いものはないと思ってしまうのだ
その納得した時の心理というものは「そうかそういった理由なら仕方ない」というものではないか
殺人に対して「仕方がない」と思ってしまうこと
それは何と怖いことなのだろうか

怨恨、敵、自己防衛、家族のため、誰かを守るため

そのような理由があったなら認められてしまうものなのだろうか
それで、いいのだろうか?

理解して納得して「仕方のない殺人」といった虚像が出来上がってしまうことに何も抵抗がないのだろうか

「仕方のない殺人」は確かに「得体の知れない殺人」をなくす
しかしその「仕方のない殺人」はいつか自分がそういった理由を殺人を起こすかもしれないという可能性を肯定する
同時にそれは自分がいつか被害者になるかもしれない、という可能性を肯定する、ということも自覚すべきである

殺人を犯すか犯さないか、そこには矢張り大きな壁があると思う
例えば、それが明確なラインだとして、ラインの向こう側に渡ってしまったら、衝動に任せて殺人を犯してしまう…というものだったとしよう
上記のような考え方はこのラインを更に我々側に引き寄せてしまうものだと思う
例えそれが10メートルから9メートル99.5センチになってしまう、くらいの微々たるものであったとしてもその5ミリが意外に大事なもので、その5ミリが結果を左右させてしまう、と思う

殺人は不可解なものである 殺人は絶対に許し難い事態である
例え、どんな理由があろうとも

しかしそう思っていてもそれを意識して思ってしまったら、つまり意識してラインを10メートルに引いたとしたら、それも決して良いとは言えないと思う
それは意識してしまうと意識してそのラインを越える理由を作ることを可能にしてしまうため、である


もし誰か、大事な人が殺されてしまったときに理解のできる理由だったらそれで許せるのか?
所詮、その理屈は他人事であるから出てくるこその理屈であるかもしれない

それでも理解のできる殺人、理由のある加害者、殺されるに足る被害者、殺すに足る加害者が蔓延するこの世の中は、誰しもが加害者予備軍であり、また同時に被害者予備軍である
そのような不健全な事態に今なろうとしていることこそを、実に不可解であり、恐ろしいことだと思っているのである



そういえば同じ事が少年犯罪でも起きていましたね
得体の知れないものがどれほど大人に不安を与えるものなのか
世間の、大人の、臆病な部分が現れたものでした

ところで「バトル・ロワイヤル」の意義は、何と言っても「人を殺したくない」と思っても、それではコントロールできない結果というものを描ききったものでしたね
結果だけ見ればただの殺人であっても、内実は違っている、という
それは理解はできていても納得はできないものだと思う
それを納得できる範囲に描き出した それは本当にすばらしいと思う
また引いては、現代未だに続く戦争についても考えが及ぶようにもなっている
つまり、戦争を起こしている国とて、平和を望んでいる、ということ
誰もが平和を望んでいれば平和になる、という夢想を打ち壊した、ということ
現在でも世界は、誰もがおそらく全員が平和を望んでいる
それでも平和にはならない
それが現状なのである
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